指導者対談 石原美歩×尾見康博

日頃子どもたちに接している指導者と発達心理学 の専門家の対談です。分野が異なる指導者の経験や意見は多くの指導者の参考となり、発達心理学からの見解は子どもたちの精神的な部分のケアに役立つものと考えます。

石原美歩

石原美歩

書道家。書道界のアカデミー賞と称される毎日賞を2回受賞。書道パフォーマンス、テレビ出演等、幅広く活躍中。

尾見康博

尾見康博

心理学者。東京都立大学人文科学研究科心理学専攻博士課程中退。博士(心理学)。山梨大学大学院総合研究部教育学域教授。

石原美歩 X 尾見康博
書道教室ではどんなことを心がけて教えているのでしょうか?

<石原>

子どもたちが週に一回のお習字を辞めないで続けていけることを念頭においています。例えば、ピアノだとマンツーマン、学校だと同学年との付き合いにいなりますが、書道の場合には、それとは異なる学年をまたいだ縦のつながりが教室で出てきます。小さい頃から机を並べてやっていると、その長い付き合いから他にはないつながりが出てきます。学校も違う、学年も違う。そういう中で同じ時間を過ごしていくことになります。基本的にお習字は辞めないで続けていくものなので、書道教室の関係の中で自覚していくのだと思います。また、書道教室自体がストレス発散している場であるような気もします。学校で今日あんなことがあった、こんなことがあったと話をしてくれます。親に言えないことも話をしてくれます。小さい頃から教えてきていると、親の次に長い付き合いになりますので、信頼関係も自然に構築されるのだと思います。

このような親以外のつながりは、子どもたちにとって必要なのでしょうか?

<尾見>

子どもたちにとって話せることでストレス発散になるのだと思います。それは親だっていいし友達でもいいと思いますが、その人のことを当事者に話すわけにはいきませんから、そういった意味では、学校のつながりではない人に話をできることは、子どもたちにメリットになるはずです。親のことについて親には話せないわけだから、書道教室もそうですが、そういった様々な種類の関係性があるというのは、子どもだけじゃなくて大人にとっても良いと言われています。書道教室が子どもにとってストレスが発散できる場となっていることはとても良いことです。

石原美歩 X 尾見康博

<石原>

確かにそうだと感じています。一般的に、書道は小さい頃から始めても、中学生になると部活や学校が忙しくなって、自分の強い意志がなければ続かない子どもがほとんどですが、私の書道教室は辞める子どもが滅多にいません。

それはどうしてでしょうか?

<石原>

はっきりとしたことはわかりませんが、私は子どもたちに強制して教えることはしてしません。それは自分の中で書道に絶対の自信があるからです。すぐに上手にさせることはできないけど、長く続けさせることができます。生徒一人一人目指すところがそれぞれに違うので、それに合わせた目標や指導をしています。書道は「道」なので、一生をかけてやっていくものだから、一日でも長く続けて欲しいという願いがあります。学生の頃は先生と生徒ですが、大人になると師匠と弟子になります。一生をかける「道」として、その子が選択してくれれば親と同じ付き合いの長さになります。

<尾見>

例えばスポーツなどは一般的に、少年団から中学校そして高校と指導者が変わります。環境が変わることになるので、それは子どもたちにとってそれなりのストレスにはなります。だから、指導者はそれも踏まえて、技術を指導すると同時に人を育てていかなければいけません。トップクラスになるのはごく一部なので、その子どもたちが、その後も趣味として好きになって長く続けていけるよう導いてあげることも必要です。それは、スポーツもで音楽でも他のことでも同じだと思います。

書道教室に中でいじめのようなことはあるのでしょうか?

<石原>

書道教室の中ではいじめはありません。私は今日何があったかをすごく聞きます。学校でのことでもくだらないことでも何でもすごく聞きます。ある意味自由な雰囲気があるからなのか?書に向かうからなのか?わかりませんが、書道教室の中では喧嘩することはあってもいじめは起こらないですね。

<尾見>

子どもたちにとってそのような環境は必要です。ある程度の規律があれば、あとは自由で少々はみ出てもいいくらいの環境が好ましいと思います。もちろん正しいやり方はあると思いますが、それが絶対として教えてしまうと子どもたちはきつくなります。ある程度あるべき姿があっても、そこにこだわり過ぎてしまうことはよくありません。ハンドルの遊びのように柔軟性が必要だと思います。書道もでサッカーでも何でも同じです。「なんでできないんだ」になってしまってはいけません。全員をそこに入れなくてはいけないとなると、相当に厳しい指導や行き過ぎた体罰につながります。みんながそんなにできるわけがありません。もちろん何でもよいわけではありませんが、個性として一人ひとりに合った教え方が必要です。石原先生は、自信があるからこそ子どもたちに対しても余裕をもって接することができるのだと思います。その中で指導しているから、あまり問題が起きない、いじめも起きないのではないでしょうか?自信があるっていうことは凄いことです。スポーツも含めてそういった指導者は本当に少ないですから。

尾見康博
そういう意識を持って教えることで、子どもたちへのストレスがかからず、それがいじめにも影響するのでしょうか?部活でもそうなのでしょうか?

<尾見>

もちろんそうだと言えますが、学校の先生そのものが、余裕を持ってやりたくてもやれない状況であることを考えると、酷な要求であるのかもしれません。先生たちは1年間のカリキュラムが決まっている中で、どうしても勉強優先で子どもたちの心のケアが後回しになってしまいます。更に部活の強いところだと、OBや地域からの要求が強過ぎて、それにある程度は反論できても、相当力がないと余裕を持って子どもたちに接することはできません。石原先生は「自信があるから」と言いましたが、そこがなかなか難しい。自信がないからこそ、すぐに叱ってしまうし誤魔化そうとします。一番簡単なのは体罰なんです。体罰は何が悪いかよくわからなくても、受けた相手にはダメなんだと思わせることができます。権力関係を維持できるから簡単なんです。

<石原>

私も怒るときはありますが、人間関係がしっかりできていると思っているので、そこはしっかりとやります。それには自分自身が成長していかないといけないと思っています。

<尾見>

それが自信と余裕なんだと思います。教えることで自分も学び、自分自身も成長していかなくてはという姿勢は、口で言えても実行するのは難しいですから。学校や部活の仕組みを考えると、未経験者が指導する場合もあるし、なかなか難しい状況ではあると思います。

<石原>

経験は絶対に必要だと思います。私も若い時からそうだったわけではありませんし、人間としての経験値も必要だと思います。今は書道だけとっても、いろいろな選択肢を与えてあげられますが、その前は無理でした。それはとても反省してるわけです。「こうしてあげればよかった」という思いがあり失敗する中から、自分が理想とする先生として指導したいという強い気持ちがあります。今だから生徒たちに「あなたたちは幸せだ。私がここまできた中で教えてあげられるから」と言えるようになりました。

石原美歩
指導者も勉強していかなければいけないですよね。尾見先生は部活の研究をされていますが、その点いかがでしょうか?また、どうして部活の研究に至ったのでしょうか?

<尾見>

私は家族でアメリカに住んで、アメリカの学校に子どもを通わせていました。スポーツをやらせようと、サッカーとバスケットをやらせたのですが、その練習風景を見てびっくりしました。ほとんどの日本人から見れば、生ぬるいって感じで甘やかしているだけにしか見えません。ひたすら褒めまくるのです。バスケットでシュートを外しても、ビューティフルとかアメージングとかどんどん出てきます。ただシュートを打ったことを褒めているから、下手でも気持ちよくみんながプレーしています。全然下手だけどめちゃくちゃ笑顔でプレーしています。親もコーチも基本は褒めまくりです。もちろん、学年が上がっていったり代表クラスになると多少厳しくなりますが、それでも日本に比べればゆるゆるな状況です。それを日本に帰ってきてからみんなに話しても、全然伝わりませんでした。「食べているものが違う」とか、「体格が違う」とか言われましたが、そういうことではなく子育て全体がそんな感じなんです。アメリカでは親が自分の子どもをよく褒めます。日本ではデフォルトが叱る、躾といえば叱るという感じがしています。その経験がすごく衝撃で、これを何とかしようと考えていたときに、体罰の事件が次々に出てきて、日本はどうなっているのか?と思ったのが、部活を研究するきっかけとなりました。

ヨーロッパはどうなんでしょうか?

<尾見>

ヨーロッパも研究しましたが、アメリカと似たような感じです。体罰したら許さない雰囲気があります。

アメリカのいじめの状況はどうなっているのでしょうか?

<尾見>

いじめはどこの国にもありますが、日本特有の面があります。アメリカの場合(州と地域で差があるので単純にアメリカとしていえませんが、ミドルクラスのアメリカで考えると)、例えば子どもたちの些細なことでも、すぐに学校に親が呼び出されます。日本では些細なことで親を呼び出してまで注意しないと思います。ちょっとした小突き合い程度は、日本だと発達の過程で健全なプロセスだと思っています。だから「ある程度見守りましょう」となります。それがすごく多いように感じます。逆にアメリカは対応が早く、いじめの芽はどんどん摘んでしまう傾向にあります。そう言う意味で、アメリカにおいていじめは日本より少ないと思います。確かに見守ることが健全な発達を促してることもありますが、本当に先生が見守り続けられるか?と言うと、登下校も含めて全ての時間監視できるわけではないで、それは不可能です。いじめは親も先生も見ていないところで生じます。特に登下校はいじめの温床として大きいと思っています。大人が気づきにくい環境でいじめが起きます。日本の子どもたちは自分たちだけで登下校しますが、アメリカはスクールバスで送迎します。だから、日本の「先生が見守りましょう」では対処できないところが多分にあると思います。

そのようなことがあるにも関わらず、教育現場では、良いことを取り入れるとか研究するとかはないのでしょうか?
石原美歩 X 尾見康博

<尾見>

日本の先生はいじめ問題を考える時間的余裕がないのが現状なので、そこまではなかなかいきません。構造的な問題も何とかしないといけないと思います。それが子どもたちへのしわ寄せとなっていますから。

<石原>

子どもたちが学校のことをよく話しするからわかるのですが、担任の先生が変わった途端に、いろいろな話が出てきます。子どもたちは先生をよく見ています。学校の環境をもう少し良くしてあげたいものです。

書道教室においてのそういうことが、子どもたちのある意味いじめのストッパーになっているのではないでしょうか?

<石原>

それはあるかもしれませんね。またそうであれば嬉しいですね。

石原先生は「最初に教えることは、挨拶と靴を揃えること」だと言います。尾見先生は「規律は日本のキーワードで、挨拶が大事だということは国や文化を超えて通用するわけではないが、それぞれが楽しく良い社会ができれば」と言います。今回の対談を通じて、子どもを育てていく指導する大人のあるべき姿にも、いじめを無くしていくヒントがあるような気がします。教育現場の現状、子どもたちを取り巻く親と周りの大人たちの社会事情など、仕組みとして考えなくてはならないこともたくさんあるうように思います。子どもたちのために、みんなが考え少しでも良い方向に進むよう意識して行動することが、やはり大切だとあらためて実感しました。